ェイとカルチャーショックは

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私は若い頃から開放的で、おしゃべりで、腹に秘密を持たない人間だということがよく知られていた。私がしゃべることは、私の本心であって、何の偽りもないと周囲の人たちは考えていた。そのせいもあって、私のもとにはいろいろと情報が入ってくる。これは私の利点であった。こと人事に関しては、当事者の生涯がかかっている。私の責任において彼らの将来を考えねばならない。私はその先生にならって、決定するまでは誰にも口外しなかった。そのため、最初のうちは決定が発表されると、周囲の者はみんな驚いたような顔をするし、「思いつき人事だ」という非難も陰ではささやかれていたようである。しかし、それも時が経つにつれて消えていった。ところで、私が尊敬していたその教授も、一度だけ大ポカをしたことがある。教授の退職記念パーティの席で、先生はこれまでの学究生活の話をされたが、その業績のひとつとして、門下から医大教授を何人も出したことを多少自慢気に話した。

しかし、企業大変化時代のいま、これでは身動きがとれなくなる。その問題の解決法はけっして簡単ではないが、やはりサラリーマンのインセンティブの変化がなければ、ビヘイビアの変化もない。もっとも効果的な方法は、サラリーマンの報酬を労働市場で通じる知識と能力の見返りと、その会社だけで通じる知識と能力の見返りに分けることだ。前者は基本給として現金で、後者は株式連動型オプションあるいは株券そのもので、それぞれ支払うのである。知識と能力という抽象的なものをどう見分け、どう分類するかが問題だが、この方法が実現すると、数年あるいは数十年同じ会社で働いていたサラリーマンは、基本給こそそれほどあがらないけれど、本人の資産のなかに、会社のパフォーマンスに敏感に反応する株式という報酬が占める比率が自動的に高まるはずだ。

〃 一人は友人の家をでて、暑い田舎道を急いだ。宏が、”「かあちゃん、いぐさ終ったのかや」「まけたよ、宏」「かあちゃん、なしてみんな泣いたのや」わたしはぎつくりと驚いて、「宏、かあちゃんになにきいてもいいけど、こんなことを人の前でいってはいけないよ」とわたしは宏の純真で素朴な問いにさえまだ用心の心をゆるめることはできなかった。〃村山家″の人たちは、戦争に負けても、泣くことをしらなかった。やっぱり彼らはス。ハイであり、「アヵ」だといわれるのがわたしにはつらかった。その夜、村山が、暗いが、管制のとかれた電燈のもとで、ゆっくりと宏たちをいとおしみながら、「今度は、父ちゃんの病気もよくなるよ、もう戦争はやめたからな」といった。わたしには、「治安維持法廃止・政治犯即時釈放か」とほほえみかけてくれた。

この度は離縁の問題も出ていることであろう。子供を愛する親たちのエゴイズムはどこの家でも大差はない。私の母もまた三・一五事件のあと、「清家に嫁にやりさえしなかったら、このようなことにはならなかったに」と従姉たちに語っていたということである。約束の二ヵ月が過ぎても清家は顔を見せぬ。三ヵ月経っても上京する様子はなかった。私は少しずつ焦燥を感じた。だがまた思い返す。「正月だけは田舎でして行け」と無理に止められているのであろう、年が明けたら上京するに違いない。夫を信じたい一心に私は不吉な考えを払いのけながら自分を慰めた。一九三○年(昭和五年)となった。未決での一度目の新年を私は病床にわびしく迎えた。友人や知人の手紙の中に党が健在であることだけは読みとれるので、それのみが今の私の唯一の励ましであった。


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